A lovely Book Week poster from 1924, designed by Jesse Wilcox Smith, who illustrated many children’s books. (via bookorithms)
デザインの現場 小林章の「タイプディレクターの眼」 - Just My Type
書体デザイン関係のコンファレンスの雑談で聞く話を集めたような本。コラム数22で、それぞれの話題が数ページくらいの短い話になっていて、気軽に読めます。
当然ですが、「国を象徴する書体」みたいな日本の都市伝説めいたエピソードなんかない。逆に、サッカー強豪のナショナルチームのユニフォームに、どんだけ別の国生まれのフォントが使われてるかってことが軽いノリで書いてある。
ちょっと引用させてもらうと、
「ドイツのチームが使ってるのは Fraktur でも Futura でもなくて Serpentine (アメリカ)だ、ポルトガルとブラジルのは Univers (スイス)に近い、アルゼンチンは ITC Bauhaus (アメリカ、だけど元はドイツ)、イングランドは最近フランス製のフォント Antique Olive に切り替えた。そのうち Comic Sans になるか」なんて。
(出典: fyfyfy)
・宗教バカは規則とか戒律を絶対視して、どんなことがあっても守ろうとするからダメなんだ。世の中に合わせて柔軟にやらなくてはいけないのに。
・宗教ってテロとか起こすし、違う宗教同士で戦争ばかり起こすし、ロクなもんじゃない。宗教が政治にまで深く入り込んでいるからいかんのだよな。
・宗教をやっている奴らは自分たちが絶対に正しいと信じ込んでいて、俺たちが何を言っても「サタンの言うことには聞く耳を持たない。地獄に落ちろ」と言う。地獄に落ちるのはそっちの方だ。
・休みになるとどこかの老人ホームや福祉施設なんかに行って、ボランティアをして、「いいことをした」と優越感に浸っている。そこまでは勝手にすればいいけど、それを俺たちに自慢するな!はっきり言って偽善者だね。
このような発言をしたのは他でもない、イエスである。
"— コラム:日本人の宗教嫌い (via gkojax) (via kagurazakaundergroundresistance) (via yasunao-over100notes) (via gkojax) (via tiga) (via petapeta) (via yaruo) (via twinleaves, mcsgsym) (via yaruo) (via kael108)
— 赤と黒(下) (光文社古典新訳文庫) - p309
(出典: booklog.jp)
『意識が高い』に込められたもの
そもそも、意識とは高いものなのだろうか。意識は高低で判断されることが可能、あるいはそれを最適基準としているものなのだろうか。意識を、その中身の様相とは無関係に、ただ最も基礎的な基準を用いて評価しようとしたとき、その直近の形容詞は私の日本語的直観からすると例えば、『強弱』に関わるものになる。すなわち、意識は、その存在の有無について語られるものであり、無を0、有を1として語られるというが基本である。さらに仮に意識が存在している場合にそれがどれほどの存在であるかについて考えたとき、その意識が弱弱しく儚いものであるか、それとも確固として存在する、はっきりと存在するものであるかという、『存在する』という述語を修飾する副詞が適用され、次なる評価基準の軸となったと考えられる。
では、『意識が高い』といったとき、その『高さ』は何であるのか。そもそも、意識の存在について直接は必ずしも浮かび上がってこない『高さ』についての形容詞は、いったいどのようなイメージを媒介として、接続されたのであろうか。まず、ここでは前提として言及さえされていないが、意識が存在しているという合意がすでに出来上がっていることに注目したい。すなわち、ここで語られる『意識』は、現段階ではどのようなものであろうと、まず『存在している』ものであり、遡及的には、この表現が肯定的に使用されることからして、おそらく存在することが好ましい中身のものであることは間違いない。しかも、ここで何が起きているかを考えると、この特定の質の『意識』に対する肯定は、直近表現の一つであると考えられる『強弱(=有無)』が語るにも足らずとして隠されたことにより、より強固なものとなる。むしろ、この表現の核は、特定意識の存在の有無を言外に追いやることによって、特定意識の肯定を合意として再確認することに他ならない。したがって、意識の有無という直近表現を隠して『有』に振りきった後にくる軸として、いわばサブとして選ばれたのが『高低』である可能性がある。また、『高さ』は、多種多様な場面での『良さ』を想起させる。そのため、「何かわからなくてもぼんやりと良い」という状態を表現するために、直接的すぎない適度な婉曲として採用されたとも考えられる。『高い』のは意識の質の領域であるとするのが自然であろう。
これらを総合すると、存在するべきと言外に暗示された特定意識について、その中身がより良い、という肯定的評価を行っていると考えられる。すなわち、先にその質が規定されたものを、再び評価しなおす、という、不必要な二重構造が存在している。これは、意識に関する評価そのものとしては機能せず、特定の意識の中身への肯定そのものの強調である。この表現が多用されるのが就職活動に関係する言説、および、ビジネスの場面であることを考えると、これらのシーンで今日持て囃されるあるモデルおよび考え方への肯定の強調であると言える。



